マスクの着用がすっかり浸透した社会となった。
そのおかげで感染症の拡大を抑えてくれる一方、息苦しさや肌トラブルに繋がったりと恩恵と弊害が混在している。
これから話すことが「恩恵」なのか「弊害」なのかわからない。
というかどちらでもないだろう。
ドッペルゲンガーに会う確率がアップ
知り合いのドッペルゲンガーによく会うようになった。
「あれ?違うよな?でももしかして...」なんて戸惑いを与えられる毎日。
ドッペルゲンガーが増えた原因を推測するのは簡単だ。
マスクをしていると顔の半分ぐらいが隠れる。
ということはドッペルの条件を満たすのが容易になったのだ。
例えば、部屋を探すのに家賃8万円で2DK以上、風呂トイレ別まではかなりの物件があるが、そこに「ペット可」の条件を入れるだけで一気に数が少なくなる。
これとまったく同じことが起きているのだ。
しつこいがまったく同じである。
死んだ父親のドッペル
父親のドッペルも見かけた。
父親は死んでいるはずなので、このドッペルに関しては私が父親に死んだふりされて騙されてない限り確実に父親ではない。
「なんかダンディな人がいるなぁ」と思ったらドッペルだった。
他人のフィルターを通すと「ダンディ」と評したということは私の父親はダンディだったのか。
そんなこと微塵も考えたことがなかったので面白い発見だった。
ゲッツ!
ドッペルゲンガーの中で最弱な私
実は私にもドッペルゲンガーがいる。
「早乙女太一」と「尾上松也」である。
自分ではドッペルと思っていないが、周りが似ていると譲らない。
光栄なことなのだろうが、なんか嫌なのである。
自分の中で「似ている」というのを認めているからだろう。
「早乙女太一」「尾上松也」「私」
並べてみると私だけ社会的地位やら能力が最弱じゃないか?
辛い。
みんなは元気だろうか
ドッペルゲンガーはマスクしてるから条件に当てはまるから増えたと推察して、それは間違ってはいないのだろうが私の心理面も作用しているのかなんてのも思ったりする。
知り合いに会えず、決まった毎日を繰り返す日々。
心の中で知り合いを探してしまっているのかもしれない。
ドッペルゲンガーは自分で生み出してしまっているのかもしれない。
パーフェクトドッペル
マスク社会になるはるか前の話。
私は地元が栃木県。
社会人になって東京で暮らし始めて池袋に行くことがあった。
池袋について改札を抜けて歩いていると地元の友人のドッペルがいた。
マスクをしていないので正真正銘のドッペル、パーフェクトドッペルである。
「うわーめっちゃ似てる!これがドッペルゲンガーってやつか」と思わず振り返ったらドッペルも振り返っていた。
本人だった。
こんなこともある。
あなたがドッペルと思ったその人、実は本人かもしれないよ。