最近、娘が5歳になりました。
5歳になったからすぐに何か変わるわけでなく娘は変わらず優しく良い子。
時間の経過は、あっという間ではなく、長くもなく、私の中の時間としては正確に5年を刻んでいた。
娘の笑顔はとても晴れやか。
一方、私は笑うのが苦手。
こんなにも違うのかと思い、彼女の大きな魅力。
私には努力しても身に付かなそうである。
晴れやかな笑顔のまま生きて行って欲しい。
だが、私も若輩者ながら34年生きてきて大変な事、辛い事も多かった。
それでも他の人と比べたらまだ良い方であろうと思うのに、中々に疲れてしまっている。
娘には、そのような出来事にあって欲しくないなぁと願いつつも、生きていくにはそれなりの強さも必要なわけで複雑な気持ちだ。
5年前に娘が生まれた。
初めての娘というか初めての子供。
生まれた時のことを振り返る。
明確に何を思ったか覚えていない。
意図的に生まれた時の思考に関して、何も準備をしないでおこうとは思っていたかもしれない。
実際に起きた事に対してその場で考え、感じれば良いと思っていたような気がしてきた。
私にとって運が良かったのは、なんの努力もせずにオートで娘が可愛い存在となったということだ。
「そんなの親だから当たり前でしょ」って思う人が多いかもしれない。
だが、世の中を見ると当たり前じゃないみたいだ。
痛ましい事件があったり、可愛いと思えず悩んでいる人もいるようだ。
また、そういったことを世に表出出来ない人も多いように思える。
自分の子供が可愛くないなんて言おうものなら、世間からあまり良い事を言われない現実がある。
親である事からは逃れられず、仮面を被ったまま生活を続ける人達。
私自身、娘が可愛いと思えるかなんてのは、生まれてくるまでわからなかった。
初めて経験するからだ。
練習とかが出来るわけじゃない。
心構えていても現実では受け入れられないということは往々としてある。
先程の仮面の人達だ。
そして、娘が生まれた。
運が良かった。しみじみそう思う。
マジョリティーで良かったと。
ただただ可愛かった。
ほっとした反面、これから初めてのことばかりだ。
不安も大きい。
妻も同じなはずだが、堂々とリードしてくれてとても可愛くて良い子の5歳の娘となった。
感謝しかない。
ちょっと前に「初めて経験するから」「練習とかが出来るわけじゃない」と言ったばっかりであるが、初めてのことでも確信して言えることもある。
娘のことは一生好きなままだ。
「今後どうなるかわからないよ?」という声もあるだろうが、少しひねくれた考えの自分がこの先何が起こるかわからないであろうことを「確信して言える」ということは、そういうことなのだ。
マジョリティーとなった親にはなんの違和感もない思考だろう。
「オートで好きになる」「無条件で好きになる」ということはそういうことだ。
本能的な部分なのだろう。
自分がそういった確信を持った事を感じる事が新鮮であった。
自分は運が良かっただけなので、子供が好きになれなかった人たちへの意見はなるべく持たないようにしている。
子供のことが好きだから良い親とも限らないし、それこそ性質的なものなので、考えても何かを解決したりするものでもないからだ。
「良い親=子供が好きではないよ」ぐらいしか言えない。
ただこれは本音だ。
裏を返せば、私は娘を愛しているが良い親になれるかどうかはまた別ということだ。
私自身が幸せな人生だったか、良い親だったか、それは私が死ぬ間際にわかる。
今はまだ通過点。
私の父親は、60歳そこらで膵臓がんで亡くなった。
本人は、さぞもう少し生きたかっただろうが、子供の私に弱音吐かず、いわゆる親の介護ということを子供である私に経験させずに亡くなった。
孫の顔を見せられたのが良かったと思いつつ、本人には生きたいという思いが湧き立って辛かったかなとも最近思った。
とはいえ、私の目指す所は父親のように子に迷惑をかけずに去る事だ。
私は、現在高齢者福祉の仕事をしている。
仕事の中で長生きすることと幸せが必ずイコールにならない情景を見過ぎてきてしまった。
そんな私にとって父親の去り方は、憧れであった。
すまない。
ただ貴方の息子は、貴方を良き父親と思っている。
5歳の娘は、今「トロピカル〜ジュ!プリキュア」が好き。
来年は、新しいプリキュアが好きになるかもしれないし、ディズニープリンセスが好きになるかもしれないし、私の知らないユーチューバーを好きになるかもしれない。
世のありとあらゆるものから娘は興味のあるものを見つける。
そして、それが娘の血肉となりて6歳へ。
歳を重ねて欲しい。
私も歳を取らないように生きるようにしたい。
気楽に生きたいがそうはいかないみたいだ。
世の親は、強いな。しみじみそう思うよ。